LGBTQ(性的マイノリティ)の人たちにも子供を授かることができる…
日本の里親制度には「両性」の二文字はないそうだ。
つまり成人二人が揃って家庭を作り、そこで恵まれない子供を受け入れて育むことができるのならそれでよいということだ。
スギナとツクシ

親は子供の手本となり、喜んで犠牲になるものだ。そのことさえ分かっていれば性の違いなど問題にすることはない。
お母さんが二人、あるいはお父さんが二人。そんな中で育った子供は性の多様性にわだかまりを持たない公平な見識を持つ大人に育つだろう。
それに「社会が子供を育てる」という理念のきっかけになるとさえ思える。
親同士の横のつながりが、親子を自然にサポートするような未来の家庭像が描けそうだ。

「親」という漢字の成り立ちを見てみよう。
よく言われているような「木の上に立って雛を見守る親鳥」を表しているのではない。

たとえば『漢字源』(藤堂明保ほか、学研)によれば、偏の「立+木」は金文(甲骨文)では「辛」であり、「刃物で木を傷つけるような辛苦」を表現し、旁(つくり)の「見」はそのような気持ちで子供の側で見守ることを結果的に表しているのだそうだ。
先に書いたように子供のために「喜んで犠牲になる」のが親なのである。
「親切」という成語もそういう意味だ。

私は学生の頃、書道塾に通っていた折、師範からよく漢字の成り立ちについて伺ったものだ。
白川静博士や、藤堂明保博士などの日本の漢字の泰斗の辞典を知ったのもその頃だった。
日本人は、世界でも文字に関しては特殊な能力を持っていることも知った。
つまり小学生の頃から、ひらがな、かたかなを始め、漢字を学び、その漢字についても音読みと訓読みがあることを教え込まれる。
同時に、ローマ字を習い、アラビア数字を使って計算し、簡単な英語をも学ばされる(私の頃は中学生で初めて英語に触れた)。
この複雑な文字体系と、およそ印欧語族とは異なる文法の日本語を、大和言葉と外来語をごっちゃにして日常会話にし普段は関西弁でしゃべるも、授業では標準語で作文をするのだから、かなり異常な脳の使い方をしている。

アラビア語が逆から綴るミミズのような文字とか、ハングルやミャンマーの不思議な文字を奇怪に思っている私たちは、世界からもっと奇怪に思われていることを自覚すべきだ。

「親」から話がかなりそれてしまった。

親は、子供を育てると同時に、子供に育ててもらうのである。
完璧な親などいない。
反面教師としての親の背中もたくさんあるはずだ。
子供も、そのうちわかってくるのである。
そしてついには偉そうに親離れをして巣立ち、また老いて小さくなった親に再会して親のありがたみを知るのだ。

小さくなった親は、小さな位牌になってしまっているかもしれない。